【概念編】「あたりまえを疑う」社会学的なものの見方

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この記事のタイトルにもある「あたりまえを疑う」という言葉。どこかで一度は耳にしたことがあるフレーズだと思います。

ビジネスにおいても、「イノベーション」や「変革」、「アイデア」、「創造」などのキーワードが出てくるような文脈で「あたりまえを疑うことが大切」などと言われることがあると思います。

しかし、「あたりまえを疑え」と言われて、その言葉をちょっと意識しておくだけでは、なかなか実践することは難しいのが実情です。

そこで今回は、「そもそも、あたりまえを疑うってなに?」を整理した【概念編】(この記事)と、「じゃあ、どうやって考えればいいの?」をまとめた【テクニック編】の2記事にわたって、紐解いていきたいと思います。

 

「あたりまえ」ってなんだろう?

そもそも「疑え!」と言われている「あたりまえ」 とはなにかを知っておく必要があります。

「あたりまえ」という言葉には「誰もが当然だと考えること」などという意味がありますが、ここで注意しなければならないのが、この「誰もが」の「誰」とは誰なのか、ということです。

なぜなら、それを「あたりまえだ」「当然だ」と発言するその人や組織、社会、文化によって、「あたりまえ」の内容が異なるからです。自身が「あたりまえ」と思っていることでも、他の人にとっては「あたりまえではない」ということがあります。

「普通」や「常識」という言葉も同じような性質を持ちます。

そこで、このような類の言葉を使用する際には、”誰にとっての”あたりまえなのか、”誰にとっての”普通、または常識なのか、その視点を常に意識することが重要となります。

そして、その中でも「自分にとってのあたりまえ」は、自身でも「自分があたりまえと考えている」ということを認知することすら難しく、疑う対象にもならないことが多いことを知っておく必要があります。

自分たちのあたりまえを絶対視してしまうと・・・

「あたりまえを疑う」というスタンスは、アカデミックの領域、特に、世の中で起こっていることを知ろうとする「社会学」や、人々の生活や活動を知ろうとする「文化人類学」でも基本の心構えとされています。

もし仮に、社会学者や人類学者が自分たちのあたりまえを通して物事を語ろうとするならば、それは「自民族中心主義(エスノセントリズム)」として厳しく批判されることになります。

社会学者や人類学者は、この「自民族中心主義」を避けるため、自分たちのあたりまえを排除し、客観的に物事を捉え、それを論じていくことに細心の注意を払い、研究を進めていきます。

社会学と「リフレクシヴィティ」

しかし、学者とはいえ、本当に物事を客観的に捉え、なににも囚われずに見ることができるのか、そして、それを論じることができるのでしょうか。

そもそも「自民族中心主義」という言葉自体も、前提として「自分たちの文化があり、それとは異なる他の文化がある」というように「他の文化」を自分たちで規定していることになります。

学者は上記のような「社会や文化をなににも囚われずに見ることができない」という批判を受けてから、「他を対象化する自身も対象化する」というように再帰的・反省的(リフレクシヴィティという)であることが求められるようになりました。

 

まとめ

やや難しい話になってしまいましたが、話の流れを追ってかんたんにポイントをまとめると次の通りです。

「あたりまえ」や「普通」、「常識」とされるものの内容は、その人、組織、社会、文化など立場によって異なる

その中でも、「自分たちのあたりまえ」を自分で認知することは難しい

アカデミックの分野では、それに気付かず、「自分たちのあたりまえ」を絶対視してしまうことは、「自民族中心主義」として厳しく批判される

自民族中心主義を避けるために、あたりまえを疑いながら、研究を進める

ただし、そうは言っても、完全に客観的に物事を捉えることはできないため、「他を対象化する自身も対象化」することも求められている

会社の方針発表などで「あたりまえを疑え」と言われて、どうすればいいか困ってしまったあなた。それもそのはず。上記に著したように、あたりまえを疑うというスタンスを持つことは、それなりに難しく、みんながみんな、かんたんにできることではないのです。

この記事では、【概念編】として意識やスタンスのお話をしました。これを知ってもらった上で、次は【テクニック編】へ進んでいただければと思います。

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