誰もが一度はこんなことを言われたことがあると思います。
「もっと客観的に考えなさい」
「自分を客観視してみましょう」
そう言われても、客観的に物事を考えること/捉えることは不可能なのです。
なぜ不可能なのか。その理由をかんたんに紐解いていきます。
捉えたいものが存在しているか
そもそも、客観的に捉えるべき要素が、そこに本当にあるのか?絶対的に存在しているのか?という問いから考えてみましょう。
一般的に「客観的に捉える」とは、主観を排除して、自分以外の立場でなにか物事を捉えることを指します。
「客観的に捉えなさい」と言われた時、同時に、そこには「ある要素について、誰が考えても同じように捉えることができるような絶対的な真理がある」ということが規定されることになります。
しかし、本当にそのような真理はあるのでしょうか?
たとえば・・・
たとえば、ある映画があり、Aさんは「面白い映画だった」、Bさんは「つまらない映画だった」とそれぞれ評価したとしましょう。この時、その映画を客観的に評価するならば、面白いのか、つまらないのか、どちらでしょうか。きっと「人によってそれぞれ感じ方が違うので、一概には評価できない」となると思います。
無理に客観的な評価をするのであれば、「ある人にとっては面白い映画だが、ある人にとってはつまらない映画である」となります。これって、つまり、ほぼ何も言っていないことと同じですね。
なぜ、このようなことが起こるのでしょうか。
それは、その映画の絶対的な評価(真理)が存在しておらず、Aさん・Bさんのこれまでの経験やそれによって醸成された価値観などによって、相対的にその映画の評価が規定されているからです。
見たいものは相対的に規定されている
その映画が面白く感じるのは、その映画よりもつまらなく感じる映画があるからであり、反対に、その映画がつまらなく感じるのは、その映画よりも面白く感じる映画があるからです。
つまり、ある映画の評価は、他の映画と相互依存関係にあり、ある映画単体のみでは、その評価は存在し得ないということになります。
これまで観てきた映画(と、その解釈)が異なるAさんとBさん。もちろん、先ほどのように、ある映画に対する評価が別れることは、ごく自然なことと理解できると思います。
ここまでくればわかっていただけると思いますが、冒頭に挙げた「もっと客観的に考えなさい」というセリフ。なぜ、私たちの考えが客観的でないと思ったのでしょうか。その指摘自体が主観的ではないでしょうか。
※ちょっと難しいのですが「絶対的なものは存在しない」という発言自体が絶対的な発言であり、矛盾してるじゃないか、という批判があることも知っておくと良いでしょう。
おわりに
もしあなたが「もっと客観的に考えなさい」と言われたとしても、上記の理由から、あまり深く悩まない方が良いと筆者は考えます。
大抵の場合、その発言の真意はせいぜい「その発言者が想定するコミュニティの中では”一般的”とされる考え方に近づけて欲しい」といったところでしょう。
でも、その”一般的”は、その発言者のまさに「主観」なのではないでしょうか?
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